「いい人」をやめたいと思った日|優しさではなく防御だったと気づくまで

人間関係

ある日、鏡の前で思った。

私はずっと、誰かのために顔を作ってきたんじゃないかと。

職場でも、友人関係でも、ちょっとした買い物のときでさえ、相手が不快にならないように、場が乱れないように自然と顔を整えていた。それが普通だと思っていたし、それができることを「気が利く」と言われることもあった。

でもその日、ふと思った。

私はいつ、自分の顔をしているんだろう。

無意識に合わせてしまう自分

気づけば私は、その場にいる人の空気を読むのが得意だった。

誰かが少し不機嫌そうにしていると感じると、自然と言葉を選ぶ。話題が重くなりそうだと、明るい方向に流そうとする。誰かが困っていそうだと、頼まれてもいないのに動いてしまう。

それは悪いことじゃない。
でも、それをずっと続けていると、自分がどうしたいのかがわからなくなってくる。

好きなものを聞かれても、すぐに答えが出ない。
どこに行きたいか聞かれても「どこでもいいよ」と言ってしまう。
本当にどこでもいいのではなく、相手に合わせることが染みついてしまって、自分の希望を取り出す場所がどこにあるのかわからなくなっていた。

空気を読むことは、長い時間をかけて身につけた自分を守る術だったのだと思う。誰かを怒らせないために、嫌われないために、場を壊さないために。
でも今は、その術が自分を一番消耗させている。

疲れているのに断れない

「大丈夫です」
「やりますよ」
「気にしないでください」

口から出るのはいつもその言葉だった。
本当は疲れているのに、本当は行きたくないのに、本当はそれ私の仕事じゃないのに。

断れないのは優しいからだと思っていた。
でも最近、少し違う気がしてきた。

優しさではなく、防御だったのかもしれない。

断ったら嫌われるかもしれない。
面倒な人だと思われるかもしれない。
その場の空気が悪くなるかもしれない。
そういう怖さから身を守るために、引き受け続けていた。

本当に誰かのためを思って動いていたのか、それとも自分が傷つかないために動いていたのか。今となってはどちらだったのかよくわからないし、たぶんその両方が混ざっていたのだと思う。

ただひとつ確かなのは「いい人」であり続けることで、自分の中の部分がじわじわと削れていたということだ。帰り道にどっと疲れる、眠れない夜がある、何もしていないのに罪悪感が浮かぶ。それは全部、無理をしていたサインだったのかもしれない。

こういうとき、心と体の疲れをどこかで吐き出せる場所があればと思う。私は最近、寝る前に短い日記を書くようにしている。その日感じたことを、誰に見せるわけでもなく、ただ書き出すだけ。それだけで、少し楽になることがある。

少しずつ、やめていく

「いい人」をやめるというのは、冷たい人になることじゃない。

わがままになることでも、誰かを傷つけることでもない。ただ、自分を後回しにする癖を、少しずつやめていくこと。

私がやり始めたのは、本当に小さなことだった。

返信をすぐにしない。
頼まれたとき「少し確認してからお返事します」といったん置く。
断るとき、長々と理由を説明しないで「今回は難しいです」それだけで終わらせる。

最初はそわそわした。
相手がどう思っているか気になったし、罪悪感も浮かんだ。
でも少しずつやっていくうちに気づいた。

思っていたより何も変わらないし、拍子抜けするぐらいそのまんま。

相手はあっさり「わかりました」と言うし、関係が急に冷えるようなこともなかった。心の中で大騒ぎしていたのは、自分だけだったのかもしれない。

「いい人」より「楽な人」でいたい。
無理をしない人、疲れたら休める人、本音を少しずつ言える人。
それはきっと、冷たいことじゃない。

自分を大切にすることで、関係はむしろ長続きするのかもしれないと、今は少しそう思っている。

まだ完全にはできないし、つい引き受けてしまう日もある。それでも前より、自分の気持ちを置き去りにしなくなった。

それで十分だと、今は思っている。


一日の最後に触るものは、自分にとって心地よい物がいい…。
そう思い、色々使って辿りついたのがモレスキンの定番ノート。なめらかな紙質でペン運びがスイスイして心地よい。「日記」という大層なものでなく、箇条書きでもいい。自分の思ったことを書きなぐるだけでも、一日の気持ちの整理ができていい。

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